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ビーナスの海
そう、あれはまだ私が学生だった時だ。
こんな皺くちゃなおじいさんにも、そういう時代はあったんだよ。
今日この講演を聴いてくれている君たちと同じように、私も美術大学の学生だった。
当時の画壇はモネやルノワールといった印象派がもてはやされた時期でね、私も似たようなものばかりを描いて満足していた。
だけど、生活はとても苦しかった。
私は地方の出で、両親はずいぶん前に死んでしまってね、兄だけが頼りだった。
その兄が学費を工面してくれていたんだが、仕事を辞めてしまってね、当然仕送りも無くなってしまった。
兄の元へ帰ればよかったんだが、絵が描けなくなるぐらいなら、死んだほうがマシだと思って、ギリギリまでアパートに留まっていたんだ。
そうしているうちに食べるものすら、満足に買えなくなっていった。
ポケットには1銭すら残っていなくって、ついに私は道端に倒れこんだ。
最早これで餓死するなら本望だと思ったね。
最後まで好きなことをやって死ねたのだから……。
「あら、しっかりなさって!」
その時、突然女の人が寄ってきて、私の肩を揺さぶった。
薄目を開けて確認しようと思ったんだが、丁度太陽の逆光になっていてね、まあるい影だけが見えた。
その人の輪郭は光に包まれていて、とてもまぶしかったんだ。
「おい、どうした?」
「貴方、大変ですわ」
その会話の主を確かめることなく私はそこで気を失ってしまってね、次に気がついた時にはベッドに寝かされていた。
ベッドだって、当時だからとても珍しいものだったさ。
弾力のある布団にえらく驚いたものだった。
私が連れて来られたのは、ずいぶんと豪華な家でね、案内された居間には、当時じゃ見たこと無いようなソファーに、煌びやかなカップとソーサー、まるで別世界にいるようだったな。
その家の持ち主は小山(こやま)と言ってね、今ではすっかり没落してしまったが、当時は名前を知らない人はいないほどの大財閥を創った人だった。
小山は大の美術品好きで、あの時代だというのに、世界各国を旅していて、パリにも行ってね、直接モネとも交流があったらしい。
そんなすごい人が私のことを助けてくれたんだ。
おまけに、私が美術大学に通っていて、もうお金もなくて退学せざる終えないと伝えたら、一枚絵を描いてくれるなら、ここに住んでくれてかまわない、学費も援助してあげようと申し出てくれたんだ。
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