30人が本棚に入れています
本棚に追加
真拆はKouign amannを3つほど買って、それを齧りながら、自宅のある高台へ続く坂道を上り始めたそのとき、ふと胸騒ぎを感じて振り向いた。月だった。やはりそうかと思った。しばらく凝とその、昼と夜の溶け合う紫青色の夕空に貼りつく、一片の薄い月を坂道の途中で見つめていたが、またしても押し寄せて来た側頭部の疼痛に気づき、そちらに気を取られて彼は眼を閉じ、こめかみに指を圧し当てた後に月へ背を向けて歩き出した。
「気のせいではないらしい」
真拆は考えた。
近頃、月が気にかかる。ふと気づいて振り返ると、そこに月が浮かんでいたということは珍しくない。月に対してのこの形容し難い感情は幼いころに持ち合わせていたが、青年期である今になって、それがどうやら再び強まってきたようだ。
「恐怖」を水で薄めたような、この不思議な気分。どうやら、自分の意識が月と同期し始めたらしいことは、27日7時間43.1分を正確に計ることが可能になったことからも明白だった。月の公転周期と彼の生活リズムとが完全に一致することに、一体どんな意味があるのかはわからないが。
真拆は眉を顰め、響く靴音を意図的に♭にしてゆっくりと帰途に着いた。
高台の、決して広くはないが美しい裏庭を持つ三角屋根のアパートメントが彼の棲処である。星座早見表の鍵飾りが付いている青いkeyを出して、三階の一室の扉を開けると、その中へと入っていった。
外套を脱ぎ、月に覗かれないように部屋のカーテンを引いて、真拆はすぐさま机に向かうと修理中の懐中時計を抽斗からそっと取り出した。まるで孵化する卵を扱うようにして真拆はそれを机の中央に置く。電気lampの灯の下でそれはきらきらと輝き、彼にひそやかな安堵を与えた。工具箱に手を伸ばす。
星月夜、時計を弄る真拆の眼は、暖炉の火を見つめる老犬のように優しい。
最初のコメントを投稿しよう!