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手の中の吊革は不愉快なほどべた付いていた。
見知らぬ誰かの汗か、それとも何か別のおぞましい分泌物か。いずれにせよ、普段の彼であれば早々にこの場を離れ、もっと清潔そうな吊革に掴まり直していただろう。朝の会議で使う資料がぱんぱんに詰まった合皮のカバンを、目の前の網棚から降ろし、他の乗客をかき分けて、彼らの迷惑気な視線を浴びながら、空いている別の吊革の下まで移動する。たった、それだけのことだ。何も難しいことではない。しかし、彼には動けない理由があった。
どこまで読み進めたかわからなくなった文庫本から視線を外し、ちらりと脇を見る。肘を真っ直ぐに伸ばして、懸命に吊革にぶらさがる小柄な少女が、彼の隣に立っている。高校生だろうか。彼女の、セーラー服の半袖から伸びる滑らかな肌の二の腕が、彼の頬に触れそうなほど近くにあった。何かの拍子に車両が揺れて、この真っ白な肌が顔に押し当てられたら、どんな感触がするのだろうと、彼は不埒な妄想を巡らせる。頬に、耳に、鼻に、唇に吸い付く少女の清らかな肌の感触を想像する楽しみに比べれば、どこの誰とも知らぬ脂ぎったおやじの手汗に塗れた吊革の不快感など、些細な代償でしかなかった。
天井のスピーカーが、がさがさと不明瞭な音を立てた。次駅のアナウンスだった。ほどなく彼らを乗せた電車が駅に差し掛かり、ブレーキをかけて減速を始める。慣性が乗客たちを進行方向へぐいと引っ張り、少女の柔らかな身体がぴったりと押し付けられた。まさしく、彼の願いどおりに。もっとも、揺れは生憎と小さく、少女の腕が彼の頬に届くことはなかったのだが。
その時、車内の空気も乗客たちと同じように引っ張られたのか、それとも彼と少女の身体の間にできた隙間に、何かしらの変化が起きたのか。原因はともあれ彼の鼻孔に、その匂いが届いた。微かな、ほんの一瞬の匂いだったが、セーラー服の袖口から漂うそれは間違いようのない、少女の汗の臭いだった。
ああ、と彼は声も出さずにうめく。失望感が押し寄せて、それは怒りに変る。そうなのだ。白く清らかな腕であっても、その付け根には腋がある。汚らわしい何かを分泌して、女の匂いを撒き散らす。彼を苦しめる吊革に付着した体液と同じものが、この腕の根元にわだかまっているのだ。
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