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森可成らの守る宇佐山城の守兵は僅か三千ばかりだった。
それでも織田方は十九日、城を出て坂本の町外れで連合軍を迎え撃った。
このときは連合軍を追い返すことに成功したが、翌日、一揆も加わった大軍に襲い掛かられ、大敗。
可成をはじめ、織田信治、青地茂綱らが討ち死にした。
勢いに乗った連合軍はそのまま宇佐山城に攻め上ったが、城に残っていた武藤五郎右衛門らが敢闘して持ちこたえぬいた。
連合軍はこれに執着することなく京に攻め入り、二十一日、山科、醍醐近辺に放火しながら、将軍御所にまで迫った。
浅井朝倉の狙いは信長の首であり雪が降る前に全ての決着を着けなければならない。
必然、電光石火の進軍が求められた。
浅井朝倉軍京に迫るとの報せを受けた信長は、本願寺との戦いを一時切り上げることに決めた。
二十三日には天満森に全軍を集め京に向かって退陣を開始。
その日の夜半には京に到着した。
それを受けた浅井朝倉は京を諦め坂本に陣を布いた。
信長は休むことなく二十四日これを攻めるために動いたが、連合軍は衝突を避けて比叡山に入り、方々の峰に陣を張った。
山上の敵を攻略することは至難の業だった。
信長は延暦寺に、味方をするよう交渉した。
織田に味方すれば、分国中の叡山領は全て返還する。出家の身ゆえにどちらか一方への味方が出来ないのなら、せめて中立を保って欲しい。さもなくば、延暦寺はことごとく焼き払われるだろう。
有体に言えば、連合軍を山から叩き出せという脅しだった。
延暦寺はこれに応じなかった。
浅井朝倉の山への着陣を許し続けたのだ。
それは、本願寺だけではなく、延暦寺までもが浅井朝倉についたことを暗に示していた。
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