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浅井朝倉連合軍と信長が睨み合いをはじめて、二月が経った。
戦場はいっかな動かず、膠着状態が続いた。
十一月の末――二十五日。
局地的な動きがあった。
堅田の地侍、猪飼野昇貞、居染又次郎、馬場孫次郎らが、信長に通じてきたのである。
信長はこれに、坂井政尚の指揮する千もの兵を送った。
だが、流石に、このことに気付かないほど連合軍もばかではない。
堅田は少し特殊な土地柄で、琵琶湖の漁業と水運を古くから掌握し町自体が一つの共同体となっていた。
嘗ては叡山の支配を受けていたが時代が下ると本願寺の勢力が堅田に浸透してきた。
その中にあって、猪飼野達は反本願寺、ひいては親信長の態度を取っていた。
猪飼野達がいつかは信長方に付くことなど、情勢を知る者であれば子どもでも予想できることだ。
朝倉義景は、すぐさま前波景当の軍を堅田に遣わす。
翌二十六日、朝倉軍に一向宗門徒の加わった大軍が堅田を襲った。
坂井、猪飼野達は応戦したが、多勢に無勢。
坂井は討ち取られ、堅田は朝倉の占領下に置かれた。
この小競り合いの後、いよいよ事態は逼迫してきた。
越前では既に積雪が見られ、本格的な冬がはじまろうとしている。
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