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恩や義理を重んじるべきだと、さんざん言ってきた。
元々、朝倉氏は近隣一帯きっての有力者だったということもある。
けれど。
血が、子の才覚や思考に影響しないことは、長政を主と戴く彼らがいちばんよく判っている。
……これは、浅井はとんでもない相手と組んでしまったのではないか――?
事ここにいたって、漸くそこに思いが及んだ浅井方だったが、気付くのがあまりに遅過ぎた。
この状況下で、先に動いたのは信長だった。
信長は将軍を動かし、講和に持っていこうとしたのである。
併し、肝心の将軍、足利義昭は、信長の保護下にある。
義昭が仲介役になったところで、朝倉はともかく浅井が納得しないだろうということは、信長にもよく判っていた。
其処で、義昭の頼みを受けた関白二条晴良が仲介する形で、連合軍と信長の講和が進められた。
延暦寺だけは中々承知しなかったが、寺領安堵の綸旨が出されたことで渋々ながらも納得。
十二月九日、ここに、連合軍と信長の講和はなった。
けれども、今や、浅井方のほとんどの者は気付いていた。
これは、講和とは名ばかりの、信長が連合軍に与えた、滅亡の前のほんの一時、一冬限りの猶予に過ぎないことを。
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