雨の季節に

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吹き抜ける風に鮮やかな緑髪を靡かせながら、此の世界の黎明より存在する大樹の化身で在る少女は、見慣れた崖の上に広がる緑野を重い水桶を抱えて駆け摺り回っていた。 天上へと向け、雄々しく豊かな枝葉を伸ばす大樹が根を張る断崖絶壁の丘。 その丘より、大樹の命の源でもある甘く清らかな地下水を井戸から汲み上げては、遥かな眼下――人間達が暮らす地上へと撒く事が、彼女に与えられた使命。 撒かれた清水は大気中に拡散し、漂う白雲を重い暗雲へと変え雨と為り降り注ぐ。 初夏の眩い季節が終わりを告げるのと同時に、後に神話に謳われる事に為る少女――ヴァルティカは多忙な毎日を余儀無くされていた。 ――まだ足りない……もっと撒かないと、また地上の人間達におかしな儀式で急かされる……。 一月程の辛抱ではあるが、特に一部の地域へは集中的に水を撒いてやらないと大地は直ぐに乾き切ってしまう。夏に勢いを増す太陽を恨めし気に見上げながら、ヴァルティカは勢い良く桶の中身を振り撒いた。 ふと、その水滴の幾ばくかが、宙に浮かぶ何やら黒い塊へと掛かった事に気付き、彼女は瞳を瞬かせて手を止める。 それは空中をふわふわと漂う、黒い毛並みの猫だった――。 人里より遠く離れた深い森の外れに、とある小さな古城が建っている。 白塗りの壁に煉瓦色の屋根を戴く優美なる城の一室から、絶え間無く聴こえる機織りの旋律に合わせる様に歌う鳥達の声が森を賑わわせていたが、不意にその歌声が途絶えた。 入れ替わる様に薄暗い空から、しとしとと冷たい小雨が降り始める。 「はあ……また降って来たのね。大樹の化身も、少しは休んでくれれば良いのに」 溜め息混じりに呟いた彼女は実際に会った事は無いのだが、大樹の化身とは仕事に一途な少女であるらしい事を、空を自在に渡る恋人から聞かされている。 「今夜も降り続けるのかしら……困ったわ……」 独り言の多い彼女――虹の織り手ことメリュケイアは、織機に並べて設置した七つの糸巻きを見詰め、再び溜め息を吐いた。 鮮やかな七色の糸が並ぶ中、三つ目の糸だけが残り少なく為って来ている。 それは純白の雲から紡いだ魔法の糸を月明かりに晒して染めた、眩い黄色の糸だった。 予備の白糸こそ作業部屋に置かれた棚に山と積んであるのだが、毎晩の様に降り続く雨の所為で此の数日間、月は雲に隠れた儘なのだ。 「仕方無いわ。今年も『彼』にお願いしましょう」
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