第二十九譚 私にとっての負け

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 その声はまるで。目の前で呟かれた言葉のように、唯臣の耳に呼吸の音が届いてくる。声は可愛らしいが、その息はいつも苦しそうで、細く小さく吸い上げる息の音が聞こえてくる。  この声は間違いない。千寿の声だ。千寿が呟いた言葉なんだ。  唯臣の手が強く握られる。その下に居る悪魔。 この悪魔は千寿の行きたい場所に、どこにでも一度、行けるために彼女のそばにいた。  唯臣が今乗るこの悪魔は、そのために遣わされた悪魔。蜜乃が千寿にあげた、誕生日プレゼント。 ────────『良いだろう。だがそれは簡単な問いだ』 「……めろ」  唯臣は思わず、呟いていた。  何となく、気づいていたから。 「やめろ────」 『マエストロ……お主の契約者、籠禽蜜乃が居る場所であろう』  ザッ  と。  見えたのは、砂嵐。  そしてその先には。  まるで天国のように降り注ぐ光をカーテン越しに浴びた、一人の少女。 『そう。正解。私は蜜乃のところに【生きたい】』  そう呟く少女……千寿の傍らには、一凛の青い薔薇があった。花瓶に飾られたそれに、千寿は指を滑らせていた。 『だがお主はそうしない。【生かない】のか?』  青薔薇の問いかけに、千寿は指を動かす。それは一介の少女では、そしてさらに言えば病院という監獄に捉えられた少女が見せるにはあまりにも妖艶で、そして鮮やかな指つき。  今という刹那を生きる火花のように。 『青い薔薇』  千寿の唇から漏れた、鮮烈な彼女の姿とは対照的な儚い声。 『不可能という花言葉を持っていた花が奇跡に代わったように。蜜乃は未来のなかった私に訪れた唯一の未來。長い髪が羨ましかった。徹夜で欠伸をするほど求められている地位も。口から出てくる人の名前が無数にあることも』  肩で切り揃えられた髪で。クマもよくわからないほど病的な肌で。白い個室で囚われた囚人のような環境で。  【正しい】心を持ったばかりに【良き】辛い彼女は呟く。 『ふふ。ねぇ……魔女は私を切り離して幸せになれたのかな。私は……切り離されて幸せになったとは、思えないけど────』  千寿は呟き笑う。それと共に、見計らったように部屋の扉がノックされた。千寿はその薄暗い笑いを顔に貼りつけたまま、扉の方を見た。 「はい。どうぞ」
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