第二十九譚 私にとっての負け

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 千寿が答えると、引き戸が音を立てて開かれていく。その向こう側もまた真っ白い空間。現れたのは真っ白い看護服を纏う女性。 「千寿ちゃん、お昼寝しっかりできた? 夕方の検診に来たよ」  カラカラと機器を引っ張りながら現れたナース。その顔は笑みを見せていた。  だが分かる。千寿の瞳が僅かに大きく、そして瞼がいつもよりも長く開く。  強張ッタ筋肉。少シ腫レタ目元。掠レタ声。昼ノ検診ノ時ニハ弾ンデイタ。器械ヲ持ッタ右手ノ小指側面ガ赤ク染マッテイル。近クニ寄ッタ時ニ漂ッテクルノハイツモノシャンプーノ匂イデハナイ。香水ト化粧品独特ノ匂イ。  あぁ。どうして今日のデートを楽しみにしていたのに。突然会議がって、それ何度目? 本当に私に会いたいの? あぁなんでもう何も考えたくないのに仕事をしないといけないの。良いわよね、いるだけで誰かが来てくれる患者は。同情してもらえる患者は。私が働いている間にも苦しんでいる間にも暢気に寝ていたんでしょう。 『黒い心を持った人間だな。まぁ人間は全て醜いものだが』  青薔薇が呟く。悪意に敏感に反応する悪魔らしい反応だった。  千寿は【良心】だが【魔女】だ。そして【人間】という【バケモノ】だ。  それは即ち。  【分かる】ということ。 「八柳[ヤナギ]さん。今日のお化粧、綺麗だね」  にこっ、と。  千寿はわざとらしくない微かな笑みを浮かべて、そういった。 「……えっ? あ、あら。ありがとう千寿ちゃん」  人が思うことは全てわかる。  どんな言葉を求めているのかも。  どうすれば愛されるのかも。 「綺麗な爪だね。それどうやってやるの?」  女性としての努力を認められず傷つけられているのなら。そこを褒めてあげればいい。 「八柳さんはいつも丁寧に処置してくれるよね」  仕事に不満を持っているのなら、やりがいを与えてやればいい。 「私、八柳さんに担当してもらえる日っていつも嬉しいの。また次も楽しみにしてるね?」  愛されていることに飢えているのなら。愛してあげればいい。  女としてどころか、人としても綺麗でいられないけれど。息をするだけで痛くて苦しくて、安眠できた記憶などここ数年ないけれど。愛しい唯一の家族にすら、一年に一度しか会えないけれど。  貴方達の不満とどす黒い感情の捌け口ばかりで、愛された記憶などないけれど。  私は【良心】しか持ち合わせていないから。
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