第二十九譚 私にとっての負け

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 唯臣が上げた声は、遠吠えだった。酷く殺気立った、怒りと拒絶の絡み合う声だということはその声から嫌というほど伝わってくる。だがそれは【感情】が分かるだけで、【言葉】としては伝わってこない。 「ジップコードさん? アレ……どなた?」  スフォリアの鞭をあっさりと切り落とした唯臣を見て、アレンが冷や汗を流しながら近寄ってくる。その顔は戸惑っているようだが、決して焦りも恐怖も抱いてはいない。困惑混じりに微かに笑ってさえいるくらいだ。  どちらかと言えば大きな衝撃を受けているのはスフォリアの方だろう。剣を相手にすれば鞭を切り裂かれてしまうことはあっただろうが、まさか生身の人間を相手にして鞭が切り裂かれるなど想像できなかったはずだ。  唯臣は痛みを感じないわけではない。だが彼はスフォリアの鞭に触れてなお、痛みを感じている素振りは見せなかった。現に彼は痛みを感じてはいないはずだ。  なぜか? それは唯臣が鞭を切り裂くときに使ったのが、自分の爪だからだ。狼人間である唯臣の爪は、通常の人間の比ではない硬さと強度を持つ。言わずもがな、爪に痛覚はなく、痛みを感じることもない。  一瞬驚いた様子のスフォリアだったが、唯臣の人ならざらぬ顔を見て唯臣が普通ではないことを悟ったようだった。ほとんど顔色を変えることなく再生した鞭に手を滑らせていく。  だが。その表情が歪むことになった。スフォリア自身に慢心は無かっただろうが、もう一度鞭を振ろうとするその準備をしようとした一瞬で、唯臣が目の前に現れたのだ。ニーナを抱えたまま飛び込んできた彼は、その腕を大きく振るう。  スフォリアが飛び退こうとしたが、唯臣の鉤爪が彼の服を絡めとり、胸元を三本、赤い線が走った。 「────────」 「えっ……!」  飛び散る赤い血。切り裂かれた自分の胸元を、スフォリアは目を大きく見開いて見つめている。初めて見るスフォリアの顔に、ジップコードだけではなくアレンも驚きを隠せずにいる。尋常ではなく大きく開かれたスフォリアの瞳孔に、ジップコードが思わず一歩、足を前に踏み出しかけたその時だった。
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