第二十九譚 私にとっての負け

54/67
前へ
/1802ページ
次へ
 ニーナを含め、皆が有翼だったためすっかり忘れるところだったが、唯臣は【狼人間】。地上を這い走る力は相当だったとしても、空を駆けまわる能力はないはず……。  ジップコードはもう一度、獣顔負けの獰猛な顔を見せる唯臣を見上げた。すると彼の足元に、何か青い光が見える。 「【ケルビム】か」  ジップコードの耳に届いたのは、スフォリアの声だった。普段その姿勢を一切崩すことなく立つスフォリアだったが、その背中は僅かに丸まっていた。当たり前だ。その上半身は、左肩から右わき腹にかけて鉤づめで大きく抉られてしまっている。流石というべきか、その声は全く澱んでいなかったが。 「ケルビム……? そうか、天使が力を貸して……」  アレンが呟く。そんな中、ジップコードは真っ直ぐにこちらを睨みつけてくる唯臣を見上げていた。 「まさか……俺っちに姫さんを預かれっていうんさー?」  ジップコードの問いに、唯臣からの答えはない。だが彼が威圧するような唸り声を上げてこなかったのが即ち、その通りだと告げているようなものだった。  それはあまりにも浅はかな思考だ。ジップコードにとっては、どちらが勝とうと関係のない話。今この場でニーナを落とし殺してしまったとしても、何の問題もない。むしろ魔女は喜ぶだろう。  喜ぶ……だろう…………。 「……そういう……ことか」  ジップコードの呟きに、アレンが動揺した眼でこちらを見てくる。彼らはジップコードが傍観役に徹すると信じ切っていたはずだ。そしてジップコード自身も、そのことに関して迷いはなかったし、そもそも迷うこと自体考えてもみなかった。  だが。唯臣は揺れることを知らなかった水面に、一粒大きな波紋を落とした。 「────姫さんを殺せば……道は断たれる……」  ジップコードは唯臣のことをよく知っている。つまりは、唯臣もジップコードの……ジップコード達【火刑者】の事情をよく知っているのだ。魔女には逆らえない、そのシナリオの上で一番踊らされている駒だということを。そして決してその呪縛は、自分たちで望んだものではないということを。  ジップコード達【火刑者】にとって、ニーナは最後の希望ともいえる。魔女をしとめることのできる唯一で最後の弾丸。祇原神也という少女がこれほどまでに【完成】へ近づいたことは今までなかった。
/1802ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加