第二十九譚 私にとっての負け

56/67
前へ
/1802ページ
次へ
 ジップコードの言葉に、唯臣はその眼を向けただけで吠えなかった。納得したのだろう。 「……」  引き際を妙に良く弁えている。これは……。 「恐ろしいカードになるかもしれんさー? ま、誰に対してかはわからんけどなー」  ジップコードが呟く。その姿をえー、と声を漏らしながら呆然と見ていたアレンが頭を押さえた。 「……どうするの? スフォリア」  唐突に現れた子供[餓鬼]に良いようにしてやられ、怒りを覚えている上官に対しアレンが問うた。いくら唯臣に多少翻弄されたとはいえ、スフォリアの実力は誰より直属の部下であるアレンが知っている。 「放っておけ。今の脅威はこの少年らしい。……少年、と言っていいのかも分からないが」  スフォリアの言葉の理由は、ジップコードにも分かる。最初は人間らしく二足歩行を見せていた唯臣だったが、いつの間にかその体制は四足歩行へと変わっていた。人間とは思えないほど見開かれた瞳も、むき出しにされた歯茎も、空を掴む手も、全てが【獣】そのもの。 「狩りの時間だ」 「オーケー、ボス」  鞭を引き絞るスフォリア。その横でアレンが剣を一本引き抜いた。  ────さぁ……お前はどうするつもりなんさ? 狼人間……。       ◆◆◆ 「甘いね。本当に甘いよ、蜜乃」 「……」  ぽたぽたと垂れていく水。それは蜜乃の全身を覆っていた水だった。髪と頬を濡らす水が、空気を求めて小さく開いていたニーナの唇に伝い、舌に触れた。その水は背後の声が告げるように甘かった。砂糖水のように。  ついた膝は、水に浸っている。水はまるで肌と一体という様に、冷たくも温かくもなく、体温を奪うわけでも与えてくるわけでもなく、ただそこにある。  だが。その全身はつい先ほどまで、蜜乃の全身を覆いつくしていた。ただそこにある水に、全身が浸かっていたのだ。まるで蜜乃という存在自体が、水になってしまっていたとでも言う様に……。  蜜乃はゆっくりと、両手をあげる。手のひらから流れ落ちていく水は、光が反射しているからか肌と一体化しているように見える。いや……この水はもう、肌なのか? 「このまま浸かり切って溶けちゃうところだったよ」  背後の声。その声を追って、私は顔を上げる。  私は……ニーナ・グレーテルは、エデンで戦っていたはずだ。そこでそう、堕天使達に負けそうになって……。 「膝をついた[負けた]はず……」
/1802ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加