第二十九譚 私にとっての負け

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 ジップコードが驚きで目を開く。その胸板を押したのは。  失楽園の闇さえ切り裂く、真っ黒い髪を揺らした少女だった。       ◆◆◆  熱い。アツイ。熱イ。  全ての細胞が自分の意思を離れ、勝手に暴走しだしたように。理性という安全装置が起動さえせず、トリガーを引かずとも衝撃で銃弾が打ち放たれてしまったかのように。  唯臣の全身は、【狼化】を始めていた。  自分が人間として大切なものを失いつつあることは分かっている。  だが。例え人間として生きること以上に。失ってはいけないものがあるから。  だから俺は選ぶ。先代たちと、父と同じように【処刑】という最期を迎えようとも。  【守る】んだ。 「ヴ……ヴ……ヴァアアアアッ!」  駆ける。跳ぶ。羽のある人間に向かって。  目の前。障害。それも敵。排除。  牙を剥く。歯を剥く。肉を引き裂く。食い破る。  目は閉じない。標的を仕留めるまで────  牙がアレンの喉を切り裂きかけた、その時だった。  唯臣の腕が弾かれたのとともに、その目の前に鈍色の鋭い剣が走る。唯臣の緊張で酷く強張った顔の前を走り抜けたその剣は、アレンの喉元を浅く抉る土どもに、彼が唯臣に向かって振り下ろそうとしていた剣を弾きあげた。 「────」  唯臣の収縮していた瞳が、大きく見開かれる。それと共に映ってきたのは、漆黒の髪を棚引かせた、精緻な顔の少女。 「ミツ────」  人間の言葉を話していなかった唯臣の喉が、人の名を呼ぶ。その口の動きに筋肉がついていけず、ひきつった声が漏れる。 「約束したはずよ」  血の付いた剣を振り払って、少女は振り向く。その手が、鋭い爪を有した唯臣の指を掴んだ。  紅茶色の瞳が見下ろしてくる。濁ったカップの底のようだった彼女の目は、今、とても澄んでいる。 「貴方の手を汚させはしない。私が生きているうちは────ね!」  そう言った蜜乃の言葉に、唯臣の強張っていた体から僅かに力が抜けていく。牙を剥いていた唯臣を、蜜乃が抱えると共に空を蹴り、【エデン】へと一直線に降下していく。 「人間一匹、捕まえられないなんてあり得ないぞ」  そんな言葉と共にじとり、と視線を動かしたのはスフォリアだった。その目が向かう先は、彼の部下アレン。アレンはそのスフォリアの瞳に僅かにぞっ、としたように顔を青ざめさせる。 「……く、待────」
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