第三十譚 乖離の空

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「わぁったよ……知らねーからな」  ニーナが言うと、唯臣は仕方なさげに頷き、ポケットに手を突っ込んだやる気のない姿勢のまますぅ、と息を吸った。  今の言葉の後に迷わず歌いだそうとするなんて、大した肝だわ。天使の歌声……それが子供に対する過剰な評価でなければいいけれど……?  唯臣の横顔を見ながらそう思っていた、ニーナだったが。  自身の読みが全く浅かったことを、すぐさま思い知ることになった。 「Ave Maria」 「────」  か弱い幼子の呼び声のように。美しい少女の歌う旋律のようで、その実少年の強気な、しかし母を恋う思いが込められている声。その歌い出しに、ニーナだけではなく悪魔も、そして天使たちも目を見開いて、言葉を失っていた。 「gratia plena, Dominus tecum benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus」※1  伸びやかに、しかし生き生きととは違う。それは感情を、心を、【生】をむき出しに晒したまま紡がれる声。  Ave Maria────アヴェ・マリア。聖歌の定番ともいえるほど、信者でない者にも浸透している曲だ。だが今までどの教会で聞いた声よりも、その声は【天使】と評されるにふさわしい歌声だった。  そして何よりも恐ろしいのが、唯臣はそれを当然のように歌い上げていることだった。自身の歌声に心酔するわけでもなく、ただ正しい歌声。静寂を切り裂くようで、静寂に溶け込む自然な歌。  ────なるほど……。  ニーナが驚きと共に唯臣の声を聞いていると、心の中でそんな言葉が浮かび上がった。ニーナの中から出てきた言葉だが、ニーナの思った言葉ではない。神に仕えているルシファーの声だ。  ルシファーですら、驚くような声なのね……。  本当にこれは、【天使の歌声】と評されるにふさわしい歌声だ。仕方なさげに歌い出していた唯臣だったが、いつの間にかその顔は真剣なものへと変わり、音の一つ一つへと真っ直ぐに向き合っているようだった。 引用 ※1 世界の民謡・童話 2019/01/17 http://worldfolksong.com/classical/ave-maria.html
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