第三十譚 乖離の空

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 これだけの毒を唯臣からいうなれば奪っているのだ。相当な負担を強いているはずなのだが……ニーナの予想に反し、唯臣は平然と歌い続けていた。  殆どの毒を使い切ってしまったニーナにとって、頼みの綱は唯臣との契約だ。バルバトスの力を使うために相当の毒を彼から得ているはずだが、一向に唯臣の顔色は変わらなかった。  身に飼う狼にいつか自我を奪われてしまうという致命的な欠陥のために落ちこぼれと言われる亞空一族だが、【バケモノ】との融合率という点では、最も優秀な一族なのかも知れない。 「来ますよ。マエストロ」  唯臣の毒を受けている左腕をニーナが見つめていると、マルコシアスが水晶の壁を見据えて言った。ニーナが視線を向けたのと、【それ】が起きたのは同時だった。 「っ」  水晶が激しく木っ端みじんに砕け散る。反射的に水晶への毒の供給を止めると、水晶自体が消え、破片が牙を剥いてくることはなかった。  急に吹き込んできた失楽園の冷たい風。相変わらず毒を含んだ痛い空気が肺腑を蝕む。この世界にいると、外も内側も、常にやすりで削られている気分だ。  その痛みがあるからこそ。ニーナはこの世界に慣れることなく、常に神経を尖らせ続けられるとも言えるが。 「そろそろ隠れん坊は止めて貰えるかな。うちのボスがキレそうなんだよね……」  堕天使の一人がエデンの床へ足を落とした。  アレン・オルダー。若干疲弊した声でそう呟いた彼の背後には、無数の羽の大群が居る。 「上司が気分屋だと大変ね」  その堕天使達の群れの向こう側にいる男、スフォリア・バーボンストリート。  変わらぬ無表情だが、明らかに苛立ち、敵意をむき出しにしているのが分かる。遠巻きで見ているジップコードが近寄らないようにしようとしているのが見て取れた。  小柄で一見侮ってしまいそうな彼だが、その噴き出したる殺意たるや、常人の域をゆうに超えていた。痛みを知らないと言い切った彼だが、それは彼にとって武器になっているのではないかとすら思える。  痛みを味わう辛さを、苦しみを知らないからこそ。他者にそれを与えることに、なんの躊躇いも無い。 「分かっちゃったかな。……、あれ?」  疲れた顔で呟いたアレンの視線が、唯臣の方へと向かう。唯臣は堕天使の視線を受けても意に介さず、歌い続けていた。堂々歌う唯臣の姿を捕らえたアレンの目が、みるみる大きく開かれていく。
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