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それは、ちょうど数時間前の出来事。朝一のひと仕事はそうやって順調に終わった。
だが現在、彼は絶望的な暗闇の中にいる。
あの素晴らしき感動の世界はどこへ行ってしまったのだろうかと彼は額の汗を拭った。
つい先程、
「三か月ですね」
と伝えた途端、
「…やっぱり」
と表情を曇らせた女。
「最悪。マジいらないし」
そうやって不快な溜め息をついたその人に、彼は失望した。
「おろすのって、いくらかかります?」
そんな、無神経で軽い口振り。ぶちりと、彼の中で何かのキレる音がした。
そして、この病棟の名物。井内先生の有り難~き『生命とは何たるか』講義が始まった。
「…先生、またですか?」
げっそりとした顔で診察室を出て行った患者を細い目で見送り、看護婦がはあと溜め息をついた。
「あ、すいませんっ次の患者さん…つまってますか?」
「先生、そういう問題じゃないです」
一人の患者が診察室へ入ってから出て来るまで約90分。あまりに長過ぎる。溜め息をつかれるのも無理はない。だが
「ああ、えっと……すいません…つい…」
そうやってしゅんとなる彼の顔にはあまりに毒がなく、深く反省している様子がひしひしと伝わってくる。
彼の名前は井内光[イノウチ ヒカル]。
ここ産婦人科病棟の主でありベスト5の一人。
全体的にふっくらとした体型に、色素の薄いふわふわとした茶色の髪と聖人のような暖かな笑顔が特徴の男。
恰幅は良いが、表情や性格はいつも朗らかで優しく、『癒し系』という言葉がそのまま当てはまるマスコットのような医者だった。
彼の周りにはいつもふわふわとした軟らかな空気が流れている。
だからこそ
「…まあ、気持ちは解ります。とりあえずこの後はまだ診察予約は入っていないので、先生も一休みして下さい」
なんて、看護婦もついつい彼の空気に流されて甘やかせてしまう。
彼の悪い所というかそれが良い所なのかもしれないが…産婦人科医ともあり、彼は生命に対する想いが強過ぎる。
よって、先程のような事態が起こるのだ。
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