春の章

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  あの人は名を稲穂実(いなほみのり)という。名乗られた時は米農家のような名前だと思った。それを知ってか知らずか実氏は「私は農民ではない」と、言ってのけた。 思わず (心が読めるのだろうか!?)と、半ば反射的に反応してしまった私に対し 「心も読めないから安心したまえ」 と、不安を煽る事をサラッと言ってのけた。 時間を置いて考えてみれば、稲穂実という名前で生きてくれば、同じようなやり取りを何度もしていて、このような掛け合いを幾度となくこなしたからこそ出来る、実氏なりの自己紹介の言わばパターンなのかも知れない。 しかし、その考えを否定的にさせるのが出会った時の実氏のいでたちにあった。 ――思い返すのも恥ずかしいような漠然とした願いを大音声で発した私を、実氏は御神木の上で見ていたと言う。 神前にて心中をぶちまけ、退散しようとする私目掛けて実氏は呵々々……と、笑いかけてきたのだ。驚いて樹上へ視線をやる私を惑わすようにして、実氏は御神木の頂付近から少しずつ低い枝目掛けて猿のように飛び移り、地面まで7メートルくらいの高さから、猫のように着地をしてみせた。 およそ人間味のない動きにも圧倒された私であったが、さらに私を驚かせるように、実氏は天狗の面をつけ、黒い陣羽織を着ていて、植物で出来ている巨大な団扇を背負っていた。そして極めつけは真っ白のブリーフをはいている事であった。
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