春の章

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  ひとり満足げな実氏は上機嫌で何度も頷くと、陣羽織の懐に手を入れ 「それじゃ早速、これを伏見区の大社に持って行ってくれないか」 と、朗らかに言い封書を取り出して私の手に押し付けた。 伏見区……他府県ではないか!? と、驚愕する私を無視し実氏は続けて陣羽織から小綺麗な封筒を取り出して付け加えた。 「それからこれは我が家の光熱費の請求書だ。大家がうるさいので可及的速やかに頼む」 そう言い親指を立てた。 相変わらず状況は飲めないが、なんだか雲行きが悪くなっているのは理解できてきて、私は些か腹が立ってきた。 キョトンとしていた私の表情も、眉間に皺がより口もへの字に歪んだ。しかし実氏は、いかにも怒り心頭な私を意に介せずに「それと最後に……」 などと言いながら、陣羽織から女物の下着を上下で取り出して 「これを丸屋町の『しんこ』さんに返しておいてくれたまえ」 と、言われた私は、見慣れぬ女性物の下着に度肝を抜かれ、余りの動揺から脱兎のごとく、それでいて豹のようにしなやかに実氏、いや、変態から逃げ出した。
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