春の章

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  一瞬にして背後から眼前に移動した実氏を見て、私は逃げきれないと判断した。 何故なら追い抜かされる瞬間、追い掛けてきていた実氏の声は頭上から聞こえ、見上げた私を実氏は大股に飛び越えて立ち塞がったのだ。 その様は当に天狗と呼ぶべき所業であったが、空を駆けるように足をばたつかせる実氏の、股間の天狗様が私の戦意をへし折ったと言えよう。天狗面に陣羽織にブリーフと言う組み合わせでも狂気をはらむのに、更にもっこりまで見上げてしまっては健全な男子の戦意を削ぐのには十分すぎるであろう。 実氏の天狗様は当に天狗ですかと!? ……。 失礼、完全に話が脱線した。 とにかく、天狗のように宙を舞う異様な実氏に、思わず私は尻餅をつき、震える口調でこう言った。 「なんなんです、あんた……」 聞かれた実氏は顎に手をあてて少し考えるような仕草をしたが、小さく「ふむ」と呟くと続けて言った。 「なんだか不安のようだが、新しい事を始めるのに緊張はつきものだろう。確かに急すぎたろうか?では、ひとつひとつ説明しよう。伏見の大社宛の封書は大天狗の伏見入道に宛てたものだ。それから請求書はコンビニで払えるからこれ以上の説明は要るまい。この下着だが、先月の女装コンテストで借りたものなのだが少し破損してしまってね、返すとき怒られそうだから代理をお願いしたいのだ。他に質問はあるかね?もう大丈夫だろう、では頼んだよ」 そう言って今度こそ下着を受け取らされてしまい、根本的にズレがあると認識した私は力無くうなだれた。
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