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  帰宅したのち、部屋の隅にドンと腰を据え卓上スタンドの薄明かりを頼りに、残りの作文を読み返した。 古い物は、ミミズがのたうち回ったような書道家も裸足で逃げ出す達筆ぶりで、そこにプラスした誤字と言う強敵のお陰で、解読は困難を極めた。 それでも必死に、当時の自分と向き合い、気づけば残る作文は一枚となっていた。 残りの一枚と言う事実に気づいて思った事といえば、素直さを除けば今の私と大して変わらないということだけだった。 全くもって期待外れと言うか、読書感想文、卒業文集、課外学習の作文、小論文の全てが、悪い意味でブレない人間像を導き出す。 こと学校機関が関与した文章にこそ、その傾向が強いのだ。当たり障りのない事をつらつらと綴った、薄っぺらい私そのもののような内容である。 なぜこうなった!! 代われるものなら、近所の野良犬と人生を交換したくなるという、新鮮な絶望を味わう事になろうとは。 将来的に私が死んで、閻魔大王の前で裁かれる事になる時にも、きっと満面の苦笑いで、微妙にしんどい地獄の刑罰に処されてしまうだろうと思えるほどのなんにも無さだった。 ある意味『自分探し』は大成功にも思われる反面、自分の自尊心やその他諸々の現在の立場から考えると、『墓穴を掘った』以上のしっくり来る言葉は無い。 いよいよ(今更ながら)四面楚歌に気づいた所だと言うのに、まさか残りが最後の一枚とは、縋る藁すら無い状況である。 救いを求めて知りもしない般若心経を唱えようとしても、知らないものは唱えること能わず、どうしよう……。 救いを求めたした軽率な行動によって、まさか小学生時代の自分に自尊心を粉々に砕かれようとは、どのような因果をもってすれば、このような奇跡的な自業自得を体験できると言うのだろう? 悪いのは小学生の自分か、今の自分か。考えるまでもない問の答えを抱きながら、私の手は最後の作文へと伸びた。
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