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劉備殿は続ける。
「尚香がそうしたいと願うのなら、私は貴女だけであれば、呉に返しても構わないと思っている」
「・・・・・・・・・えっ」
わたしは、危うく脳がストップするところだった。
「あの、それは、本気で仰ってるんですか・・・?」
「本気だとも」
恐る恐る尋ねれば、力強い頷きが返されて、わたしの脳は瞬間的に処理落ち寸前まで追い込まれた。
だって、わたしをここに置いておけば、もしかしたら人質としても使えるのに。素直に帰国させるなんて、そんな、まさか。
「私は、貴女には幸せであって欲しいと、心より願っているのだよ」
ああ、この人は本当に、優し過ぎる。戦と策略に満ちた世界を生きるには、あまりにも。
どうして彼が、わたしの夫になってしまったのだろうか。いっそ、もっと酷い人なら良かったのに。そうすればわたしは、こんなにも悩まずに済んだ。
「・・・・・・玄徳様は、お優しいにも程があります」
「よく言われる」
わたしの言葉に、彼は穏やかに笑う。
優しい彼に、わたしはまだ何もしてあげられていない。何の力にもなれていない。
けれどきっと彼にとっては、わたしが母国で幸せになることが、わたしに対する1番の望みで。だから、
「玄徳様」
「うむ」
「お許し頂けるのでしたら、わたしは呉に戻りたいと思います」
「無論、許そう」
だからわたしは、帰国を決意した。
迎えの船は、3日後に来ることになった。
わたしは極力普通に過ごしつつ、顔見知りの者に簡単な別れの挨拶をして回り、荷物をまとめた。
あっと言う間に帰る前日になった。その日、わたしは劉備殿の部屋を訪れた。
「おや、どうしたのだ、尚香」
書類と向き合っていた彼は顔を上げ、出迎えてくれる。
「お仕事中に申し訳ありません。・・・・・・・・・お別れの挨拶に参りました」
「・・・そうか、戻るのはもう、明朝であったな」
「はい。そこで、明日の出立において、1つお願いがあるのです」
「ほう?」
わたしは意を決し、言った。
「明日、わたしが帰国する折には、見送りは不要です。玄徳様も、他の方も、誰も。皆様のお顔を拝見したら、帰りたくなくなってしまいそうですから」
未練を残したくなくて、わたしはそう願った。奇しくもこれが、わたしが劉備殿に言った、最初で最後のワガママであった。
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