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横の壁を向く。白いはずのそこに茶色の染みが踊っていた。
虫は虫であってもこちらは蜘蛛の名残であって、紙魚ではない。昨年から一人暮らしをしているこの部屋では、蜘蛛によく出遭う。丸々と太った小指先大の黒い蜘蛛だ。虫というものは昔から大の苦手で、蜘蛛が出没したときも、誰かに退治して欲しいと願ったのを如実に覚えている。しかし、そこには私しかいない訳で、泣く泣くティッシュを何枚も取って潰したのだ。
そして、かつて在った命は壁の染みとなり果てたのだった。
この小さな、でも消えることのない染みは、ちっぽけな蜘蛛のかすかな抵抗なのかとふと思った。
蜘蛛に何の罪もあるわけではない。あるのは、この家の中に蜘蛛などという気色悪い虫にいて欲しくないという私の都合だけ。それだけで、この蜘蛛は殺されてしまったのだ。この蜘蛛に子孫がいるかどうかなど分からないし、蜘蛛の生態についてだってもちろん知らない。たとえ他の何者もこの蜘蛛のことを知らなかったとしても、私は知っている。蜘蛛はこの染みをここに残すことのよって、私の記憶にしがみつくことに成功したのだ。
言わば、この染みは墓なのだ。
虫でも、生きた証とやらが欲しいのかも知れない。私だって、死ぬときには惜しんで欲しいものだ。私が蜘蛛の死を惜しんだかというと、それは別問題だけれども。
この部屋の中のいることが何となく、本当に何となく嫌になって、飛び出したくなった。時計を見ると、午前二時。いつもだったら、こんな時間に外出するなんてありえない。若しくは面倒だと思うはずだった。でも、ずっと部屋に閉じこもって創作活動とやらをしていたせいか、またはもう暖房を必要しなくなってきたこの頃の暖かさのせいか。足が疼いてしょうがない。
夜の未だ見慣れぬこの街を歩いてみたくなった。
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