紙魚は泳げない

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 ドアを閉めて、鍵をかける。足音を忍ばせて、階段を下りた。オートロックの扉を慎重に開けると、肌寒さが私を襲った。思わず笑い声が漏れる。ここは、境界だ。日常から非日常へと、私はひと時だけ客人(まれびと)となる。  春と言っても、夜はまだ冷える。高揚する気分を押さえ込んで、一歩一歩進んでいく。空気は清清しく、春らしい陽気さを含んでいる。夜は意外と暗くないのだとにわかに気づく。マンションの廊下の明かり。自動販売機。街灯の黄色い光。そのせいか、または曇っているのか。星はほとんど見えない。  あて先などない。普段垣間見ることのできない街の雰囲気に推され、足は進む。静かな道に自動販売機の低いうなり声だけが響く。その他は物音一つ聞こえない。すれ違う人もいない。  いつもは騒がしい都会の街であるはずなのに、まるで故郷の田舎の様。  なぜそう思ったか、はたと気づいた。空気が違うのだ。昼の埃を含んだ沈滞しているそれとは別物である。冬の鋭さと春の柔らかさを併せ持つような、澄んだ空気。草と土の匂いのする、陰りのないそれ。生まれてからずっと嗅いでいた、懐かしい記憶の中の匂いと同化していく。  笑いたくなった。踊りたくなった。人々の視線からも、私の狭い部屋からも開放されて私は自由であった。ここで私が何をしても、咎める者なんていない。変人を見るような目付きをする者だっていない。こんな不恰好な服で身を固めて、お行儀良く歩く必要もないのだ。  いつ誰が通るか分からない道路で、手を指先までしっかり伸ばした。くるくると回転してみる。ヒールの高いパンプスは脱いで、かばんの中に放り込んだ。  くるくる。くるくる。  全身で開放感を表現していく。キーボードで文字を打って表現するより、こちらの方がよっぽど素敵で、私らしい。
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