芸術初犯゜

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『私は神だ』、そんな時代に産まれ落ちた。少なからずも、団塊と呼ばれる世代のJr.たちに紛れ込んで、泥だらけで生きてきた。周りには絵に関心を持つ者すら居ない。ごく少数の友人と限りなく青春を過ごした後で、私たちはどこに行っても孤独だった。すべて『気楽』だけが『勇気』と名付けられた世間で、娯楽に走る人たちをよそにひたすら筆を磨いてきた。人間が神だという信仰によって神々の世界は冒涜され、カラヤンはいつの間にか死んでいた。サイバー化でやたらと自分を見失うことがもてはやされ、私たち絵描きはひとりでに局限化されたこともあった。享楽にむせる時間の中で、自分たちさえ良ければそれでいいという流れを逆流するように、形式と構造、様式とシステムに溺れる毎日。ついには自分を見失うような偽装という虚偽に騙されてきた。あるいは騙されることが善だったのかもしれない。しかし、使い過ぎた神経をハードに持ち続けることを、どこにぶつけ、どのように駆使すれば良いのか?高まる改悛の感覚は自暴自棄へと姿を変え、支配し所有するのが善だと謳われてきた、その一方で、いやに気取る者やいやに飾るものが幅を効かして、それで満足し本末転倒。時代が悪いんだとは解っていても、ごく少数の者にしかそれを透察しどう働きかければ良いのかがわからない盲目的な日々への熱中。軽率さが真剣さに姿を変え、正確と推量のはざまを行き交い、微妙な事件と世界構築、そして地球の謎にのまれてゆく人々。責任としての『夢はいつか叶う』しかし夢を叶えた人間に積もりに積もる悲しみや感情の爆発、それに対するまだ夢を叶えたことのない人間の抱く優劣感情とはなんだろう。そこに潜在する自虐的意識の行き場の無いエネルギー…芸術によって人の心を奪うという罪の責任ははたしてどう取ればいいのか…(?)簡潔に考えよう。 『私は、なぜ描くのか』『私は、なんのために描くのか』今の社会的現実を盾に取る日本社会に、リアリティをどう表現していくかが問題である。 🍸   〓〓🌃
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