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満足してないんだな、お前まだ。
壁に向かって投げては捕る。捕ったらすぐ投げる。
男の子はひたすらそれを繰り返す。
判った判った。
鷹見は苦笑した。
やれるだけやってみるさ。今の俺はすっかり鈍っちまって、どこまで出来るかわからないが。
――それでいいだろう?
男の子が振り返る。
笑っているような気がした。
捕手からのサイン。
鷹見は頷いた。
後ろに体を逸し、背筋を伸ばすような動作を入れてからセットポジションに入る。
足を上げた。
もう鷹見の目に六番打者の姿は映っていなかった。
キャッチャーミットすら。
目の前にあるのは、あの日、あの頃の唯一の練習相手。
薄汚れた小学校の校舎の壁だ。
上げた足を踏み出す動きに合わせて体重を前に乗せてゆく。
筋力、重力、加速力。
すべての力をリリースの瞬間に集約し、爆発させる。
冷たい風、ファンの声援、眩いナイター照明。
すべてが消えていた。
恵子の顔さえも。
思い切り腕を振る。そしてリリース。
昨日までのことはもうどうでもいい。
明日のことは判らない。
実に三十年振りの感触に心を震わせる今が、鷹見の欲したすべてなのだった。
――END――
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