四月二十九日金曜日(昭和の日)

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「ぅお……ぷ……」  足元が大きく持ち上がり、僕はふわふわの床に膝を付いた。  壁に掛けた手は離れることなくずるずると下がる。 「トイ、レが……遠い」  平時なら十秒くらいで歩ききれる距離が、地平線の彼方と同じくらい果てなく感じられる。  それでも、喉元まで込み上げた夕食に急かされるように再び立ち上がった。  某港、四月二十八日午後十時発のフェリー。一等船室フロアの廊下。  僕は、船酔いに苦しまされつつトイレを目指している。  手摺りはあるけれど、それを持つとどうしても身体が前傾してしまう。つまり、吐く。  折角の綺麗な廊下に嘔吐物を撒き散らすようなテロ行為に及ぶ訳にはいかない。  急ぐことは叶わない。ならばと気を紛らす為に顔を上げた。  壁にはめ込まれた丸窓から見える夜空は光をばらまいたように輝き、糸目の月は高い位置で頼りなげな明かりを零す。  対照的に、海は墨を流したような黒。フェリーに切られて白い波を立てながら、怒り狂って暴れていた。 「海……怖い」  恐怖と揺れの原因がどうしようもないということを知り、より気持ち悪さが増した。  やってしまった感がある。  確か見境が「遠くを見るといい」と言っていた。  遠く……。 「何もないよ……」  大きな揺れ。  踏ん張る力もない僕は、なす術なく身体を持っていかれる。  水平線ががくんと傾いた。  なんで地球って水が零れないんだろう……。  ほとんど這うようにしてトイレへ歩みを進めながら、僕は船に乗る前を思い出した。  思えばあの時から、全ては始まっていた――――
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