飛べないから火にも入れない夏の虫

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  おずおずと席について、ポケットから文庫本を取り出す。 背後から肩を叩く手は無い。スーパーボールも跳ねない。つっけんどんな声との会話も、展開されない。 予定調和の日常は安定してきたのに、活字の意味はどうしてか一向に脳内で像を結ぶ気配が無かった。 一時限目は、担任教師による倫理の授業。人の生き方や個性にまで言及した哲学者たちの言葉は、中学の公民と比べるとずいぶんマシだけど、現実味が感じられないという点では僕にとって大差は無い。例えば、今先生が読み上げる何とかって有名な哲学者の名言。 「もし私が神だったら、青春を人生の最期に置くだろう」 それだけは本気で勘弁して欲しいと切実に思うのは僕だけだろうか。 「先生もねぇ、青春したよー。高校生活って本当に一生の思い出になるからね。遊びも恋も、手を抜いたら絶対にダメ! 先生本気で皆の事応援するから、どんな悩みでもどしどし相談受付中!」 ざわめき出した空気に、僕だけずるずると床の下へ押し込まれるみたいだった。そういうのは要らないって、言ってるのに。あ、言ってはないか。 ふと目を遣った窓の外には、雲ひとつ無い青空が広がっていた。ここへあの夕空の白を浮かべたら、さぞかし綺麗な雲が出来そうだ。なんて、明らかに変だとわかる思考が頭を過ぎった。  
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