飛べないから火にも入れない夏の虫

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  奇妙な事に、数十秒経過しても、お釣りが出てこなかった。代わりに、ウィンドウの下にある購入ボタンが再度ブルーに点灯している。 そう言えば返却レバーを回さないとお釣りが出ないタイプだったのを思い出し、整わない呼吸のまま少し考えて、缶の緑茶をもう一本、購入した。何でかそれは格安で、八十円だった。 両手の平に心地好い冷たさを握りしめて、僕は抜け道へ足を踏み入れた。 何かに立ち向かう勇者のように、肩を怒らせて、ずんずんと進む。 光までライトグリーンに染められた短いトンネルを抜け出て、ぱっと開けた頭の上には、朝と変わらない雲ひとつ無い青空がどこまでも続いていた。 頼り無く伸びる畦道を歩く僕の虚勢はあっという間に剥がされて、みるみる猫背になるのがわかった。 どうして、ここなんだろう。水を張った田圃から立ち上る陽炎に、遠くゆらゆらと病棟の薄緑色が誘うようにたゆたう。僕を平凡から切り取って行ったあの病院は、大嫌いなはずなのに。境界線の曖昧な病棟の影。こっち側の騒音は遥か遠ざかって、向こう側から漏れ出る微かな狂気はあまりに安らかで。 気がつくと、小児科で処方される風邪薬のように甘美な時間が流れている。 小さい頃、お母さんによく飲まされたあの薬に、中毒性なんて無かった筈なのに。  
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