飛べないから火にも入れない夏の虫

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  2. 傾きかけた太陽の光は、経年劣化したプラスチックタイルのように黄ばんでいた。 それでも日が長くなったのだろう、この時間でも病棟の影は手前の駐車場を覆うだけで、僕の歩く畦道までは伸びていなかった。温室のように肌を焼く熱気の中、一歩一歩と薄緑色の病棟を視界の中で大きくしていくと、徐々にはっきりと見えるようになる金網の端、駐車場を覆う黒々とした影の縁に、その白はあった。 まるで、その境界線から出ることを許されないとでもいうように、宗願寺夕空は影の切れ目に立ち尽くしていた。 無機質な双眸は斜め十五度を見上げ、空を行くトンボの遥か向こうへ視線を放り投げている。まだ短い稲の葉を揺らす風は無いはずなのに、腰まで伸びた長い白髪はあてどなく熱気と戯れ、それだけで淡く輝いているみたいだった。 病棟の黒い影と金網で引かれた境界線を挟んで、向かい合う。夕空がゆっくりと視線を落として、どんな波長の光さえ吸い込んでしまいそうな黒い瞳で僕の姿を捉える。 「そろそろ、来る頃だと思っていた」 前と寸分違わぬ言葉が、鼓膜へと滑り込んだ。どうしてわかるんだと問いかけたくなるけど、答えは決まっていると思い直す。 「また星の声を聞いてたの?」 「そう」 抑揚の消失した掠れた声とともに、夕空が小さく頷く。  
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