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「鍵…シリンダーって、いうんでしたっけ?」
榎本さんの作業を見ながら、私は尋ねた。
「よく錠前と言いますが、それはドアノブまでを含む錠全体を指す言い方なんです。シリンダーは、鍵を差し込んで錠前を操作する『鍵穴』の部分の事を言うんです。なので、シリンダー交換は鍵交換で合ってますよ」
「確かに普通に話してて、シリンダー交換したんだ、とは言いませんもんね」
慣れた手つきで、そのシリンダー交換を済ませた榎本は、新しい鍵を差し込んだ。
そして、扉を押さえながら鍵を回転させて、施錠と解錠を何度か繰り返し、デッドボルトを確認する。
スッと立ち上がったかと思えば、今度は一旦外に出て扉を閉めると、自ら鍵を開けて入ってくる。
「シリンダーの交換は終わりました。あとは補助錠を取り付ければ完了です」
「…あのっ、‥少し休憩しませんか?」
私は仕事に夢中な彼に、思い切って声を掛けた。
「ここに来てから休憩もしないで、ずっと仕事してるし…お茶でもどうですか?」
紗英の誘いに一瞬、驚いた顔を見せた榎本だったが、その表情はすぐに戸惑いに変わる。
お茶に誘われた事が嫌な訳ではない。
ただ、あまり人に誘われた経験がないため、こういう時は、どう返事したら良いのか分からなかったのだ。
しばしの沈黙が続き、その空気の重さに耐えられなくなった紗英が、先に口を開いた。
「あ‥、榎本さんが忙しいんならいいんです。お仕事、邪魔しちゃいましたね」
小さく笑み、軽く頭を下げれば、クルッと背中を向ける。
そうだよね。
純子が言ってたのを忘れてた。
榎本さんは今の仕事が大好きだということを。
その仕事を中断してまで、さして親しくもない私とお茶する意味もないだろう。
買ってきたケーキは、ひとりで食べればいいかと思った、その時。
「あの…。お茶を頂いてもいいですか?」
黒縁メガネの位置を人差し指で直しながら、榎本は静かに言った。
「…はいっ。勿論!」
私は彼を信頼している。
だから、彼の前では気を張らずに、いつもの自分でいられる気がした。
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