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そう、普通は知らないことが当たり前。
僕がやっている事は、セキュリティ会社の人間だけが知っていればいい、知識なのだから。
ただ、それ以上の知識を得てしまった場合、天才と呼ばれるか、変わり者と呼ばれるかは紙一重である。
そして、残念なことに僕は後者の人間だった。
「榎本…さん?」
「あ…、すいません。補助錠やガラスアラームのパンフレットです。何か不具合があれば、いつでも連絡して下さい」
自分でも気付かぬうちに、黙り込んでしまっていたようだ。
「それから、インターホンの付け替えですが、改めて会社の者が、電話で一ノ瀬さんの都合を聞いて、こちらにお伺いする事になると思います」
「はい、分かりました。しっかり覚えておきます」
ソファーに置かせて貰っていた鞄を手にして、僕は彼女に頭を下げた。
「では…。引越業者の書類、お借りしていきます。なるべく、早く返却しに伺います」
その言葉に、彼女は小さく首を振って微笑んだ。
「すぐに使うものでもないし、返すのはいつでも構いませんよ。それに…なんとなく、榎本さんが持っていてくれたほうが、安心します」
そんな事を言われたのは、初めてだった。
僕だったら、そこまで他人を信用したりはしない。
寧ろ、自分の抱えた問題を他人に話すことすら、いつか伝わりに伝わって、再び、自らの耳に入る事を考えるとはばかられた。
玄関の外まで見送りに出てくれた彼女に、礼を言って背中を向ける。
一階エントランスに出るべく、エレベーターに向かっていた僕の足は、途中で止まってしまった。
何かを言わなきゃいけない。
彼女に伝えなきゃいけない。
そんな気持ちが、僕の足を止めたのだ。
「…あの…」
振り返れば、彼女はまだ、そこに立っていた。
自分の言いたい事を、どう伝えようかと頭をフル回転させる。
「本当に、いつでも遠慮なく電話して下さい」
それが、僕なりの精一杯の言葉だった。
彼女が頷くのを見て、僕はエレベーターに乗った。
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