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「ねぇ、りおさん」
二人ともチャーハンを平らげ、冷たい麦茶(これも特別サービスとのことだ)を飲んでいた時のこと。
マスターが珍しく真顔で、私にこう言ってきた。
「僕ね、じつはこの店、もう辞めようと思ってるんです」
「…え?」
「いや、この商売を辞める訳じゃないんですけどね。まったく新しい場所で、一からやり直したいなって考えてるんですよ」
「…そう、なんですか…」
あまりに唐突な話に、私の口からはそれ以上の言葉が出て来ない。
それきりしばらく黙りこくるマスターに何か声をかけなきゃと思い、私は質問を捻り出した。
「でも、わざわざ場所を変えなくてもいいんじゃないですか?この店で、一からやり直したらいいじゃないですか」
「駄目ですよ。それじゃあ、駄目なんです」
私に背中を向けてシンクで食器を洗いながら、マスターは即答した。
「一からやり直すためにはね、一度ゼロに戻らなきゃ。でないと、中途半端な再出発になるだけですから」
私には、マスターのその言葉がうまく理解できなかった。
ゼロに戻るリスクを背負ってまで一からやり直すことの理由が、よくわからなかった。
「もちろん、今持っているモノを全部捨てるのは怖い。でもね、りおさん。一旦リセットしなきゃ、先に進めないことだってあるんですよ」
タオルで手を拭きながらそう補足したマスターの顔には、いつもの優しそうな微笑みが戻っていた。
「今の中途半端な現状を完全に平地に均して、その上に新たなモノを積み上げていきたいんです。そのためにはね、今持っているモノが邪魔になるんですよ」
そう言って笑うマスターの真っすぐな瞳に見据えられ、私はそれ以上、何も言えなかった。
「りおさん」
マスターの声が、まだ少し混乱気味の私の頭にこだまする。
「明日、彼に会う前でも後でもいい。もう一度…、もう一度だけ、この店に来て下さいませんか?」
今までになく真剣な眼差しで、マスターは私にそう言った。
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