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◇◆◇◆
辺りはようやく暗くなり始めたものの、昼間の暑さを孕んだアスファルトから立ち上る熱気はいまだに冷めやらない。
時刻はもうすぐ夜の七時。
私は、彼のアパートの下で、
水色のカーテンの向こうに光る蛍光灯のぼんやりとした明かりを見上げていた。
ここまで来たらもう、細かいことを考えるのはよそう。
私はゆっくりと、古びたコンクリートの階段を上る。
心中を駆け巡る葛藤。
モウ彼ノコトナンテ忘レテ ココカラ逃ゲ出シチマエ……
逃ゲ出シタトコロデ 誰モ私ヲ責メタリシナイヨ……
でも、私の足は止まらなかった。
ほとんど機械的に、階段を上り続けた。
階段を上り終えて左手に曲がるとすぐ、スチール製の玄関のドアが見える。
大きなハートの形をした表札に、百円均一で買い揃えたと思しきアルファベットパネルの組み合わせで作られた、懐かしい彼の名前。
そしてその名前の下に寄り添うように、知らない女性の名前があった。
火照った全身に冷水を浴びせかけられたかのように、一気に血の気が失せていく。
ドアの向こうから聞こえてきた赤ん坊の愚図る声と、それをあやす彼の声が聞こえてきた瞬間、
私の心の中の壁は決壊し、
とめどなく溢れ出してきた涙をボロボロと流したまま、
私はその場から、逃げるように立ち去った。
私は、何をしにここまで来たんだろう。
夕闇に包まれた河原沿いの土手を歩きながら、私は自問する。
昨日まで、いや、つい今さっきまで、答えの出なかった問い。
彼との修復か。
彼への報復か。
否、
答えは、
そのどちらでもなかった。
電話で一方的に告げられた、彼からの別れの一言が、
ひょっとしたら冗談だったんじゃないか、って、
やっと冗談に気づいたのか、遅いよ、なんて、
彼が、笑いながら言ってくれるんじゃないか、って、
そんな、淡い期待をいつまでも抱いていた私自身への、
決別。
私が望んでいたのは、
彼との思い出を捨てきれずに引きずる、甘ったれた私自身への決別だったのだ。
それに気づいた時、
私の足は自然と、あの店へ向かっていた。
『一旦リセットしなきゃ、先に進めないことだってあるんですよ』
昨日のマスターの言葉の意味を、今やっと、身をもって理解できた気がした。
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