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マスターはそれから、これからの自分のビジョンについて語ってくれた。
彼の才能を買ってくれたスポンサーのおかげで、大阪の方に店を構える段取りはできていたらしい。
要は、あとはマスターの気持ち次第だったという訳だ。
今日、たった今、
過去の弱い自分と決別した私と、
不安を振り切り再スタートを決意したマスター。
新たなスタート地点に立つことのできた達成感と安堵からか、私たちは互いに見つめ合い、微笑みを交わした。
「あの、それで、ですね、りおさん。もひとつ、あの、お願いがあるんですけど…」
いつもハキハキと喋るマスターが、やたら歯切れ悪く、私から目を少しだけそらしながら、つぶやくように言った。
「新店オープンしたら…、今度は、その…、最初の、一人目のお客様に、なってもらっていいですか?」
私は、そんなマスターの照れた横顔を見つめて笑う。
こんなにも自然と笑えたのは、いつ振りだろうか。
「はい、喜んで。でも、そのかわり―…。いつものコーヒー、おごって下さい、今すぐ」
やっと私の方を向いてくれたマスターと目が合って、私は少し、おどけた振りをする。
昨日まで渇ききっていた私の心に、一陣の新鮮で心地良い風が吹いたような気持ちだった。
「もちろん、今すぐにご用意しますよ」
「あ、でもマスター。ミルクと砂糖、たっぷり入れて下さいね」
「え?いつもブラックなのに?」
「はい。なんだか、今は―…」
驚いた表情のマスターに、私は今の感情を隠すこともなく、答えた。
「とびきり甘いのが、飲みたい気分なんです」
マスターと新店のオープン後に再会することを約束して、私は喫茶店を出た。
そして、
改めて振り返り、古ぼけたブリキの看板を見上げて、その時初めて私はこの店の名前を知ったのだった。
“sentir de l'amour”
それはまだ小さな、
とてもとても小さな、
“恋の予感”。
私はこの数日間の名残を惜しむように、しばらくその場に立ち尽くしていた。
~Fin~
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