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「おいしいです、とても」
私は素直な感想をマスターに述べた。
どことなくホッとする味。
二口、三口と飲み進めるにつれ、さっきまで私の全身に張り詰めていた緊張が和らいでいくのを感じる。
何もかも捨てて、
何もかも忘れて、
ここから逃げ出したい。
帰りたい…。
カップの中にたゆたう真っ黒なコーヒーをただじっと見つめながら、ついそんな衝動に駆られる。
くじけそうになる気持ちを奮い立たせるのに、私は必死だった。
ここで逃げ出しては、職場に無理を言って休みを取ってまで、わざわざ京都に来た意味がなくなってしまうのだ。
「どうかしましたか?髪の毛でも入ってました?」
急に黙り込んだ私に、マスターが優しく声をかける。
私は、自分の中のもやもやとした気持ちを払拭するつもりで、マスターとの会話に集中することにした。
「いえ、本当においしいです。お店は大体、この時間は空いてるんですか?」
「はは。この時間に限らずいつも空いてますよ、ウチは」
洗ったグラスを丁寧に磨き上げながら、マスターは肩をすくめる。
「そうなんですか?コーヒー、こんなにおいしいのに」
「あぁ、ありがとうございます。一応ね、こないだ、ちょっとしたコンテストでは優勝したんですよ、僕」
「だったらなおさらじゃないですか。もうちょっと…、その、お客さん来てもよさそうなのに」
「そう簡単にはいきませんよ。人気と実力は必ずしも一致する訳ではないですから」
そう言って自嘲気味に苦笑するマスターだったが、その表情の奥には、自分の力を信じる揺るぎない強さがあるように私には思えた。
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