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◇◆◇◆
カランコロン。
昨日も聞いたベルの音。
昨日と同じ、三分の二まで開いて止まるドア。
昨日と同じ、店内に立ち込める芳醇なコーヒー豆の香り。
昨日と同じ、柔らかなフリージャズの調べ。
「やぁ、いらっしゃい」
そして昨日と同じ場所で同じメモ帳を持った、昨日と同じ笑顔のマスター。
まるで、昨日にタイムスリップしたかのような錯覚をおぼえる。
「すみません…!」
だが私はその感覚を堪能する間もなく、バッグから取り出しておいた財布を片手にカウンターまで詰め寄った。
「きっと、今日も来てくださると思ってましたよ」
「すみません私、昨日のお代金…、払ってませんでした!」
マスターの穏やかな声と、私の切羽詰まった声が、相変わらず客のいない静かな店内で交錯した。
「いえ、いいんですよ。昨日は僕もついつい、おしゃべりに夢中になってましたから」
マスターは微笑みを湛えたまま、財布からお札を取り出そうと必死になる私を片手で制した。
「外は暑かったでしょう?せっかくなんで今日もゆっくりしていってくださいませんか、りおさん」
「…え?」
なぜ、私の名前を…?
「あ、すみません。これ」
きょとんとした私の顔を面白そうに見ながら、マスターは私の財布についた小さな茶色い革製のストラップを指差した。
“RIO”と銘の入った、誕生日に友達からもらったストラップ。
「素敵なお名前ですね」
そんな歯の浮くようなセリフも、このマスターが言うとなぜかとても自然で、嫌味がなかった。
「あの、本当に…、すみませんでした」
恐縮しながらも私は促されるまま昨日と同じ席に座り、カウンター越しにマスターと対峙した。
まぁ、いいか。
今日、二杯分のコーヒー代を支払えば済むことだ。
どのみち、今日も明日も予定はない。
明後日の“本番”を控え、一人きりでいると余計なことばかり考えて潰れそうになってしまう。
ここでマスターとおしゃべりするのも気晴らしとしては悪くないと、その時の私はそう思ったのだった。
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