8人が本棚に入れています
本棚に追加
噛むというか、舌と上顎ですり潰すというか、心地よい餡のざらつきを感じる。
柔らかい甘み、豊かな小豆の香り。
私は羊羹が好きだ。
「また羊羹に浸ってるし…」
奏多が冷たい視線をよこしているが、そんなの全然関係ない。
夏のよく晴れた暑い日に、日陰の縁側で、よく冷やした羊羹を少し薄めに切って、時間をかけてゆっくり食べる。
最初ひんやりしていた羊羹が、時間がたつにつれ徐々に常温に戻っていき、味も香りも豊かになっていく。
「あ!カナちゃん!!お父さんのオリンピックのビデオ見よっか!!」
「……うん」
奏多の冷たかった表情が少しだけ緊張したのがわかった。
私は気にせず居間のビデオを点けた。
27歳だったお父さんが、オレンジのグラウンドに引かれた真っ白なスタートラインに立っていた。
右膝を突き、そしてゆっくりと伸ばす。
風がふわりとお父さんの髪を揺らす瞬間、スターターピストルの乾いた音が響いて、お父さんは走り出す。
足は目で追えないくらい速く動くのに、真っ直ぐに伸びた背筋がぶれることはない。
太陽が凛としたお父さんの背中をスポットライトみたいに照らして、私はいつもお父さんがゴールして画面から消えるまで身動きも瞬きすらもできない。
「お父さん、かっこよかったね」
「…うん」
お父さんはそのオリンピックで4位だった。『次はメダルを!』お父さんに次のオリンピックは来なかった。
お父さんには非のない交通事故で、即死だったらしい。
お父さんが死んで3ヶ月後、私が生まれた。
だから私はお父さんを写真やビデオや、お母さんの話でしか知らない。
お父さんは羊羹が大好きだった。
走るのが大好きだった。
お父さんは私が生まれるのをずっと待っていた。
「ねえ、カナちゃん、私オリンピックに出てみようかな」
「は?」
奏多の視線はやはり冷たい。
私はお父さんを知りたい。
同じように羊羹を好きになって、走るのを好きになって、お父さんをもっともっとちゃんと知りたい。
そう強く思うのは、お父さんがいないからなんだろうか。
「バカ…かな?」
奏多に聞いているのか、誰に聞いているのか。
羊羹がとろりと光っている。
「頑張れば」
そっぽを向いて奏多がぽつりと呟く。
むんとした湿気の強い部屋に心地よい突風が吹き込んだ。
「うん!」
真っ青の空の下、私はたまらず走り出す。
最初のコメントを投稿しよう!