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「ねえ、透」
「なに?」
「私と一緒に、暮らしてはくれないかしら」
彼女の腕が、僕の首に回った。脳がしびれるこの感覚。彼女の声に心が揺れる。
「貴方は優しい。楽しいし、笑顔が素敵。好きよ、透」
「僕も好きだ。君とずっと笑っていたい。けど……」
「けど?」
首に手を回したまま体だけを少し離し、彼女は真正面から僕を見つめた。
「僕には、帰る場所があるんだ」
「それはどこ?」
「……分からない。思い出せないけど、帰らなきゃいけない場所があった気がする。僕は帰らなきゃいけない」
自分でも訳の分からないことを言っていると思った。だけどそれは確かだったんだ。ずっと寝起きのようにぼーっとする頭の中で、『帰らなきゃ』という思いだけは揺るがなかった。どこに帰るのかも分からないのに。
複雑な表情を浮かべる僕を、彼女は悲しそうな顔で見つめる。僕の心は罪悪感で押し潰されそうで思わず目をそらしそうになったとき、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれた。もう日が傾き始めているせいか、彼女の顔がより赤らんでいるように見える。慌てる僕を余所に、再び僕に抱き着く彼女。
「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったの」
「僕の方こそごめん。本当にごめんね。君を泣かせたいわけじゃなかったんだ」
「分かってる。だけど一つだけ、わがまま言っても良いかしら」
酷く弱々しい声でそういう彼女の髪を、僕はゆっくりと撫でた。
「もう一日だけ。明日まで、ここにいて?」
潤んだ瞳で見上げてくる彼女はとても可憐で、僕は愛しさのあまりもう一度強く抱き締めた。僕は彼女が好きだ。それなのにこんなに泣かせて、僕は一体なにをしているんだろう。
思い出せもしない帰る場所なんて、もう良いじゃないか。
何だか全てがどうでも良くなっていく気がした。
そうだ。一日と言わず、やっぱりもう二・三日はここにいよう。
そう言いたいのに、どんどん瞼が重くなっていく。そんなに寝不足だったのかな。ああ、駄目だ。眠くて仕方ない。
起きたら言おう。
起きたら、彼女に……
起きたら………………
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