知勇兼備の勇将蒲生氏郷

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生没 1556~1595迄 幼名 鶴千代 別称 侍従、忠三郎、賦秀、レオン 急死に関して 秀吉や豊臣政権の五奉行となる石田三成 らによる毒殺説もあるが、下手人と目されている三成自身が蒲生旧臣を多く召抱えていることや下記の理由により、ほぼ否定されている。診断した医師、曲直瀬玄朔が残したカルテ「医学天正記」には文禄の役の主兵の途中、既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記す。その他の玄朔の診断内容から氏郷は今でいう直腸癌、又は膵臓癌だったと推測されている。 蒲生氏郷 「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」
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