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親が生前庄屋だったという家はさほど裕福とは言えないが、文机と帳場箪笥が備えられた部屋は男の学の高さが伺い取れる。
箪笥の中には沢山の紙が入っていた。
「俺は何をしていれば良い」
「好きに過ごせば良いよ。与えやしないから、あるものを好きに使って好きに食べると良い」
何とも奇妙な関係だった。
しかし与えられねば俺は居る意味が無い。
与えてくれる者がおれば、此処を離れるのだ。
そう伝えたが「そのうちに役に立ってもらうよ」と笑うだけだった。
男は字が書けない者の代わりに書簡を書く仕事をしていた。
その所為か男の爪の間は何時も墨で黒く染まっていた。
大体は家に客が来るが、度々硯箱を風呂敷に包んで出向く事もあった。
男はその硯箱を…特に硯を大切にしていた。
ごつりとした硯は丁寧に掃除され、深紫のような不思議な色彩を放っていた。
「大切な友人に頂いた物だ。これは己の命より重い」
硯を愛おしげに撫でる横顔はいつも綻んでいた。
俺はその硯で墨を磨る音を聞きながら昼寝をする日々を過ごす。
その時間は何気に気に入っていた。
或る日俺は男に連れられ、更に山奥の村へとやってきた。
目に付く田んぼの米が実り始めていたから暦は秋になっていたと思う。
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