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朝早くに家の戸が鳴る。
身形を整えた男が閂を外すと、開いた隙間から一人の小汚い農民が隠れるように身体を滑り込ませた。
「…今から書けるか!?急ぎだ」
切羽詰まった様子でまくし立てるとあがりかまちに腰を据える。
苛ついているのか焦っているのか、身体を忙しなく揺らす様を見るのは気分が良くなかった。
「墨は出来たか?では頼む。
本日暮六ツ、神社で集会あり。呼び掛け人は…」
小汚い男の言葉を、男は姿勢良く紙に認めていく。
それに比べ、小汚い男の身体を揺する仕草の何と見苦しい事か。
美しい硯に指を突っ込むと、男は驚いたように筆を止めて俺を見た。
そのまま墨を掬うと、あがりかまちに座る小汚い男の顔に塗り付けてやった。
「どうした?手を止めるんじゃねえよ。こっちは急いでんだ」
筆を止めた男を睨み付ける小汚い男の眉間に丸を書く。
小汚い男はそれに気付く素振りもなく、墨の塗られたそこに皺を寄せた。
書き終えた書簡を懐に入れると、小汚い男は去って行く。
「危うく笑い出すところだったじゃないか」
男はそう言いながら、硯の掃除がてら俺の指も拭いた。
…そんな穏やかな日々は、突如として終わる。
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