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情、という言い方をした後、家老の目が更に細められほんのりと恍惚に染まった。
その目は幾度も見たことがある。
欲の色、だ。
「端渓水源」
家老の言葉に男の背中が僅かに強張る。
家老はそれを見逃さず、目を三日月のように形作った。
「おぬしの硯はやはり端渓か。以前書簡を頼んだ役人の中に目利きがおってな。藩邸内で噂になっておったのだ。どれ、わしも生きているうちに一度この目で見てみたいものだ」
人の良さそうな男だ。
しかし、何か言い方が気に障る。
俺はほんの少しだけ正体を濃くした。
家老は一瞬の事に身体を震わせ、怯えた表情で此方に灯りを向ける。
が、はっきりとは見えんだろう。
家老の目線を追って男も此方を向き、俺と目が合うと小さく首を振った。
余計な事はするな、といったところか。
「…そこに、誰ぞおるのか?」
「いいえ、ここにはずっと私一人です」
「そうか…。しかし妙に気味が悪い。月が明るい夜だ。少し外へ出んか?」
「……わかりました。申し訳ありませんが、着替えるまでお待ちください」
男はさっさと常盤色の着物を身に纏うと、硯箱を持って外へと出て行った。
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