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「…私はもう、その硯と共に、死んだ」
「そうか」
ならば俺が此処に居るのは無駄な事。
「もう行け」と呟く男を見下ろした。
「…最期に俺に頼みたい事はあるか」
「ない」
「誰かに伝えたい言葉は無いか」
「……」
死んでいた筈の男の目が一瞬だけ開いた。
「俺は伝えてやらん。お前からは何一つ貰っていないんだ。自分で伝えるんだな」
風呂敷包みを解くと、硯箱を男の前に放り出した。
荒々しい音を立てて蓋がずれ、隙間から男の硯が見えると、男の目に更に力が入った。
「…見張りは」
「寝ている」
「…そうかい」
男はゆっくり息を吐き出すと、僅かに身体に力を入れた。
瞬時に男の顔が苦痛に歪み、呻き声を上げる。
腱だけでなく、どこか骨も折れているんだろう。
俺は立ったまま、芋虫のように蠢くその男を見ていた。
何とかうつ伏せ寝になると声にならない悲鳴を上げる。
落ち着く頃には、息も絶え絶えになっていた。
しかし休む事無く、硯箱の蓋を顎で退かし舌で墨を探る。
その口が墨を捕らえるまで、四半刻はかかっただろう。
その口を硯に寄せ、唸り声を上げながら、ゆっくりと動かし始めた。
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