431人が本棚に入れています
本棚に追加
男の口から垂れる涎が僅かに光を反射した。
暗く湿った牢屋に墨を磨る音が響く。
最後であろう、その聞き慣れた音と匂いに包まれながら目を閉じた。
目を閉じれば、凛とした姿勢で墨を磨る、常盤色の背中が見えた。
…どれほど磨っていたのか。
音が止み、目を開けると口元を真っ黒に染めた男が顔をしかめて痛みに耐えていた。
唇が小刻みに震え、脂汗が噴き出している。
何と声を掛けようとしたのかは忘れたが、己の口が開きかけたのを覚えている。
男はそんな俺に見向きもせず、呼吸を整えると硯箱の一番下にあった紙を引きずり出した。
そのまま筆を歯でくわえ、涎で磨ったばかりの墨だまりに筆先を落とす。
筆の力で紙が動く。
その紙の端を足の指で押さえると男は顔を上げた。
俺の行動に驚いたのかと思えば、その口角は僅かに上がっていた。
何故笑う?
気でも触れたか。
…男が顔を上げたのはその一度きり。
後は俺の存在を忘れたかのように一心不乱に筆を落としていく。
男の荒い息だけが牢屋を支配した。
何時も紙を滑るように動いていたはずの筆は、今は叩きつけられ、押し広げられ。
無惨な筆先と無茶苦茶な力加減で書かれた文字は、最早字には見えん。
最初のコメントを投稿しよう!