431人が本棚に入れています
本棚に追加
恰幅の良い男の家に世話になっていた時だ。
家の主が仕事で江戸に行く際、身の安全を守る為か俺を連れて行った事があった。
それだけ世が荒れていたのだろう。
格子窓から差し込むはずの陽は、分厚い雲により完全に姿を隠していた。
朝からの雨は大きな牡丹雪に変わり、溶ける事無く降り積もっていく。
春間近の江戸の町を容赦無く覆い尽くしていく白を、宿の壁に寄りかかりながらひとり眺めていた時だった。
「…憎しや…憎しや…」
情緒も風情も無い声が雪と共に部屋へ舞い込んで来た。
否、薄い壁の向こうからか。
「許さぬ…許さぬ…!ああ…!憎らしや…!」
男の声だった。
怨念を込めるように絞り出される声は季節外れの蚊が鳴く程に微かだが、腹の底から煮えたぎらんばかりの熱を孕んでいる。
「…望みはあるか」
気付けば暇潰しにそう口にしていた。
壁の向こうの男が息を呑んで身を強張らせているのが伝わる。
「此処で逢うのも何かの縁。望めば叶うやもしれんぞ」
「だ…誰だ…。私を幕府に売るつもりか?」
「面倒な遣り取りはしたくない。望みが有るのか、無いのか」
男は黙り込んでしまった。
最初のコメントを投稿しよう!