十日夜の章

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  取引不成立。 ならばもう此処に用は無い。 姿を戻して背を向けると落ち着いた声が俺を追う。 「…願わくば。若者達の行く末を見守ってはくれぬか」 「俺に何の利がある」 男を見れば、先程より精気が増した眼で俺を睨み付けるように見ていた。 「妖よ、利は己で探すが良い。人の世は持ちつ持たれつだけでは無い」 「ふん。到底狂い損ないの言葉とは思えんな。せいぜい這い蹲って長生きしろ」 此奴は俺の誘いを断った。 長生きするだろう。 壁に溶けてゆく俺に、男は姿勢を正して頭を下げた。 その行動に少なからず驚かされる。 俺が恐ろしいのか、ただの別れの挨拶か、頼み事の後押しかはわからないが、初対面で俺に頭を下げた輩は初めてだった。 それからはもう、壁越しに声が聞こえて来ることはなかった。 ――その日は一日中雪が降り続き、晩は一切の音を拒絶するかのような静寂に包まれた。 朝になると雪の勢いは増し、これから起こる騒動を煽っているかのように見える。 「桃の節句にこの大雪は凄いな。さて、折角江戸へ来たんだ。町へ駕籠を見に行くか。妻に土産物も頼まれているんだ」 重い腰を上げ、支度を始める主の背中に目を細めた。 「…嫌なものを見るぞ」  
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