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俺が返事に詰まっていると桂木二尉がとっさに笑顔で答えた。
「これは失礼しました。以前聞いた事のある歌がこちらから聞こえてきましたものですから。今歌っていらしたのはお宅のお嬢さんですか?」
その老婦人は一瞬目を丸くして、さらに愛想のいい表情になって言った。
「あら、これは珍しい事もあるもんで。謡い姫の歌をご存じですか?」
ウタイヒメ……まさか!
「まあ、立ち話もなんですから、お上がりになりませんか?こんな田舎ですから、お客さんが来るのは久しぶりですので。さあ、どうぞ、どうぞ」
縁側から座敷に上がらせてもらうと古風な造りの日本家屋だった。多分元は農家だったのだろう。勧められたお茶をすすりながら二尉が話を続けた。その家の老婦人が尋ねる。
「下のキャンプ場へいらした方ですか?どこであの歌を?」
「いえ、はっきり思い出せないんですが、以前どこかで聞いて感動した事がありまして。もう一度聞けたらと思いながらあきらめていたんですが、さっき下の沢で思いがけず耳に入って来ましたので、つい来てしまったというわけで」
「ああ、そうでしたか。昔ひい婆様から教わった歌でしたが、他の土地にも伝わっていたんでしょうね」
「ひいお婆様とは、その子の?」
「いいえ、私の、この年寄りのひい婆様ですよ。生まれは江戸時代の人でして。ほれ、あそこの左から4番目の写真がそれです」
その人が指さした壁の鴨居の上には歴代のこの家の主人夫婦の写真が飾ってあった。その写真は白黒で古びてぼやけていて、そしてそこに映っているのはしわくちゃの老婆だ。だが、俺はその顔に確かにかすかな小夜ちゃんの面影を見た。
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