蜘蛛

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蜘蛛

その時私は何才だっただろうか。もう忘れてしまったが幼い日のこと。   知り合いが入院したという理由で、母とお見舞いに行った。 といっても、それは母の知り合いであり、幼い私には話題の一つも分からない。 最初こそ大人しくしていたが、段々つまらなくなり、一人で廊下に出た。 はっきり覚えているのは、やたらと眩しい夕日。 今思えば、西向きの廊下だったのだろう。 夕日を背景にした町並みは、切り絵のように影がはっきりしていて、細い電線が空を区切っていた。 なんの気なしに、風景を眺めているといつのまにかボワァッっと、周りの音が遠くなり、風景がひどく霞んで見えた。 遠くから、クラクションやタイヤの音。 大きな道からする音だけが、間延びして聞こえる。 ざかざかざかざか 建物の向こう側、大きな道から乾いた紙を引っ掻くような音がした。 切り絵のように見える建物の隙間を動く大きな何か。 それは大きな、大きな蜘蛛だった。 足は伝線をゆうに越え、小さな建物などは体に隠れてしまう。そんな大きな蜘蛛。 茶色の毛や、黒っぽい体は、家の中にいる地味な蜘蛛に似ている。 ざかざかざかざか  音が次第に遠くなり、消えた。蜘蛛は道なりに山へ向かい、影と夕日の光に飲まれて見えなくなる。 と、世界は耳元に帰ってきた。  母の声 見舞いが終わったのだろう、帰るよと、声をかけられた。   「お母さん、大きな蜘蛛がね、道を走っていった」 手をつなぎ、母に報告した。 身振り手振りを加え、大きな道を指し示し、説明する。 子供の戯言に、母はきちんと答えてくれた。 「大きな道だからね。歩きやすいから、きっと人間以外も使うんだよ」 戯れ言を、信じてはいなかっただろう。ただ、否定すれば、面倒だと思ったのかもしれない。 とにかく母は、そう答えた。 幼い私は母が、話を信じてくれたのだと満足して、車に乗り込んだ。 「歩きやすいのだから、きっと人間以外も使う」 今思えば、真理かもしれない。百鬼夜行も、山の妖怪も、出会うのは道と相場が決まっている。 私は今、高速道路を走るバスの中にいる。 連なる車の間に、変に開いたスペース。本能的に、道を譲っているかもしれない。 歩きやすいのだから、道を使う、何か、に。
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