織田家の章

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信長は中嶋砦からさらに進軍し、今川兵を見て「あの兵は夜間に大高城に兵糧を輸送し、丸根・鷲津砦で戦って疲れておる。それに比べこちらは士気旺盛だ。相手が出てきたら退き、退いたらつけこめ」と言っていますが、この信長の発言には勘違いが含まれています。 大高城に兵糧を運搬し、丸根・鷲津砦で戦ったのは松平元康(後の徳川家康、この時は今川家に従属している)の部隊であり、この時点では大高城におり、信長の言う疲れた兵は疲れた兵ではなく、信長は勘違いをしたまま戰を続けます。 そして、信長が軍を進めている時に豪雨となり、この時の状況が『信長公記』に「雨が織田軍の背中に、今川軍の顔に吹き突け、楠が東に倒れた」と記されてあり、信長が中嶋砦を出て東へ進軍した事を表しており、この記述を信用するならば、通説で言われているように迂回路は通っておらず、正面攻撃を敢行した事になります。 そして、今川軍はこの攻撃を受けて総崩れとなり、退却戰の際に総大将である今川義元はあっけなく討ち死にしてしまいました。 この時の今川軍の退却については、一般的には散々な有り様だったように思われがちですが、退却自体は組織的に行われていたようです。 では、なぜ今川軍はこうもあっけなく敗れ去ってしまったのでしょうか。一つ大事な事を言っておくと、今川義元は決して愚将などではありません。 政治・外交・軍事どれをとっても優秀な武将であり、義元が愚将と思われがちなのは史実からかけ離れた桶狭間の戦の虚像に端を発しているのだと思います。義元を単なる公家かぶれのお坊っちゃん扱いする事により、信長の勇敢さを際立たせ、戰の勝利をより劇的にする為だと思います。今川義元については他の項で書こうと思っていますが、かなりの苦労人でもありました。
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