織田家の章

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「なぜ今川軍があっけなく敗れ去ったのか」という話に戻りますが、一番の原因はやはり急激な天候の変化でしょう。この根底には先に書いた信長の勘違いがあり、運も信長に味方したのだと思います。 しかし別の見方をすると、信長は天候の変化を予期し、勘違い発言も士気を上げる為の方便だったとも受け取れます。天候については、当時の人々は現代人よりもはるかに知識があるので、信長もある程度予測していたような気がします。しかし、予測はできても変化させる事は不可能なので天運も信長に味方していたのでしょう。 勘違いについても自分の意見を述べますと、戰の常道として信長は物見を放っていたはずなので、大高にいる兵と対峙している兵を間違えるとは考えにくく、やはり勘違いというより方便であったと思います。とはいえ、「信長は天候の変化を予測していた。勘違いではなく士気を上げる為に方便を用いた。」というのは、自分が想像している信長の性格と後の戦術から考えただけなので鵜呑みにはしないでください。 次に戦術的な面で見ていくと、義元の攻撃目標は砦でありましたが、信長到来により攻撃目標が変わってしまい、その対処に手間取ってしまったようです。と言うのも、信長が今川軍の本陣へ突撃を開始したのは午後二時だったらしく、当時の戰の形態として午後二時からの戦闘開始はまず有り得ないらしく、しかも低地からの攻撃なので、これまた戰の常道に反した攻撃をされています。 これらの事を含め、「義元の敗因は油断にあった」とも言えますが、やはりそれ以上に信長の運・常識はずれの戦術眼が義元の才覚を凌駕していたのだと思います。 桶狭間の戦については様々な説がありすぎて書いているときりがないですが、近年まで通説となっていて、現在でも幅広くしられている信長の迂回奇襲作戦はなかったでしょう。ただ豪雨を利用し、戰の常識にとらわれない信長の行動は奇襲と呼べ、その才覚は称賛に値するでしょう。
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